妙心寺の午後


   一

 昭和廿三年十一月三日午後、秋の洛西には静かな雨を見た。妙心の禅刹に

久松真一教授を訪うたのは、河井、村岡の二友と私とである。山門をくぐり、

石畳の道を踏むのは何年目のことであろうか。久々でその時を得たことを私

は悦んだ。変わらぬ松の緑と、変わりゆく秋の樹々とが綾なして、吾々を迎

えた。両側に塔頭が居並ぶその石道には、人一人のけはいさえなく、さなき

だにそぼ降る雨が凡てのものを寂静に帰した。誰が清めたのか、境内は塵さ

え止めぬほど掃きぬぐわれて、清浄の気があたりを包んだ。正に寺院という

寺院はこうあるべき筈である。作務は禅生活の欠くべからざる一部というが、

禅と云わず、凡ての僧生活がかくあって然るべきではないのか。庭の掃除、

木々の手入れ、ここにも亦修業があり説法があろう。「畢竟浄」が仏の住む

個所であるなら、寺院にも亦穢濁を止めてはなるまい。一度ここの禅門をく

ぐれば正に別個の一天地である。建物も庭苑も亦道路さえも、それぞれ公案

への答えをなしているとも云える。どんな名園もここより易々と美しくはあ

り得まい。見事な樹々とその配置、古りた土塀、厳かな寺門、それを越えて

聳える屋根と甍、そこには歴史の深み、信仰の強さ、そうして清規のきびし

ささえ見える。禅刹がなかったら京の都はどんなにその重みをそぐであろう。

有難くも伝統は脈々として絶えず、宗門の力、今も衰えざるを覚える。ここ

に住む禅僧達にはいとも重い任務が懸かる。若い修道僧たちの抱負や如何。

 春光院の門をくぐれば庫裏の破風が見事な構造を見せる。ここが久松博士

の住む塔頭である。仰ぎ見てその美しさにしばし足を止める。右に折れ左に

折れ、裏手の土蔵に沿うて奥に進めば、小路は庭に続く。樹々の立込む中を、

飛石に導かれると、深く枝に被われた僧庵が休む。軒端に下る鐘を打って来

訪を告げると、音も消えた家の奥から教授は静かに出てこられた。

 誰も知る通り博士はこの古刹に修禅せられること多年、湘山老師の鉄槌の

下に法脈を伝え、戒を持してこの庵に独り住むこと三十有余年、尚一日の如

くである。教授は寡筆であるが、二、三の著書が充分にその体験や学識を語

る。もとより禅経験が凡ての思索の中枢であるが、東洋の宗教思想に、新し

い学的基礎を与えられた氏の功績は並々ではあるまい。共に居士とは云え、

恐らく鈴木大拙先生と共に、現在の禅門に最も重きをなす存在である。人に

接する氏の性格の温厚と慇懃とは誰も敬うところ。氏をこの春光院に訪うこ

とは私の久しい念願であった。

 今は洛中にあるとは云え、世塵を断った僧庵である。苔むす土塀と、生い

茂る木々に被われて、室はほの暗く、障子を通す光はそれをいや静めた。簾

ごしにかすかに聞こえる雨の滴りが、一入庵室の寂しさを深めた。偶々低く

重く打つ梵鐘の音は、凡てを禅定に誘うかのようであった。床には曾良の俳

画が掛かり、壁には寸心先生の額があった。主人は懇ろに吾々を迎えられ、

座をすすめ、やがて昆布茶を出された。凡ての起居振舞、襖のあけたて、皆

礼節があった。

 茶禅一味というが、主人は修禅と共に、茶事に親しまれ、ここの生活も

「茶」を離れてはいないように見うけられた。氏を訪う人は誰もお点前を親

しく受けるであろう。私達はやがて釜と風爐先とが用意せられた奥の室へと

案内を受けた。吾々のために態々茶を点じられるのである。やがて水指が運

ばれ、茶碗、茶筅、茶杓、茶入が運ばれ、続いて柄杓、蓋置、建水が齎らさ

れた。かくして季節の名菓が進められ、菊紋にけづられた銘々皿を吾々の前

に置かれた。やがて慣れ切ったお点前によって、抹茶のもてなしを懇ろに受

けた。

 想うに主人の「茶」は、只茶事に止まるが如き「茶」ではない。行住座臥

是れ「茶」であって、日夜の生活、振舞、応接、皆茶礼の心があって、暮し

そのものが「茶」の中にあるのである。茶室の「茶」、茶会の「茶」の如き

は、その茶生活の僅か局部に過ぎまい。暮しに「茶」があり、「茶」に暮し

があって、その間に分たれたものがないのである。恐らく客が誰であろうと、

それが茶人であろうと禅僧であろうと、はた商人であろうと学生であろうと、

主人は「茶」の心や振舞をくづされたことがないのではあるまいか。たとえ

客がなくとも茶礼をおろそかにはされないであろう。この点でどんな茶人よ

りも、宗匠よりも、もっと正しい茶人ではないであろうか。歴史に古りたこ

の僧庵がこの主人にとってこの上ない心の住家なのも無理はない。坦々三十

年、尚尽きることのない生活の泉は、茶禅一如のこの心境から湧き出ている

のである。その禅体験と哲学的学識と茶生活との三位が一体をなしている点

で、真に独自な存在ではないであろうか。他の誰がこの三者をよく兼ね備え

ているであろう。

 その日主人はどんなお点前を示されたであろうか。その慣れ切った手さば

きを誰も心地よく感ずるであろう。併し並々ならぬこの茶人が、私達に示さ

れたのは、一般の点茶で、しきたりを守る「茶」であった。それだけに正系

を踏む「茶」とも云えるが、同時にしきたりの「茶」が示す弊も亦そのまま

であった。主人は柄杓を取る。それをかたと音を立てて蓋置の上に置かれる。

茶碗に湯をそそぎ、茶筅を清める。その時二度、三度高く茶筅を引き上げて

は湯にひたす。凡ては茶法に依るのである。しきたりの茶礼がかくせよと私

達に教えるものである。教授はその教えに従順なのである。それ故これに疑

いを差挿んではおられぬ。併しそういう型は既に度を過ごした形に落ちては

いまいか。蓋置に音を立たせる。もともとこれに柄杓を置く時、音がするの

が自然だからによる。併し態と音を立てるべきであろうか。態となら自然の

音ではあるまい。音に滞る音ではないのか。若しそうなら既に禅意から離れ

たものではないであろうか。音あってよく無くてよい境地で、柄杓を置けぬ

ものであろうか。音にこだわらぬ音がないものであろうか。そういう自由を

教えるところに茶禅がありはしないか。不必要な高さにまで茶筅を茶碗から

離す。それでよいであろうか。もともと型は何等かの誇張を持つであろうが、

型に滞っては心は死ぬであろう。自然さを破ってまで型に従うと、茶筅の用

い方は不自由に落ちる。もっと坦々と自然にそれを扱う道はないであろうか。

茶器の捌きに自然さが犠牲となっては、「茶」が「茶」ではなくなるであろ

う。茶礼の深さは、自然さに基づくところにあろう。それが不自然な手捌き

に沈めば、「茶」は不自由な「茶」に落ちる。柄杓の音、茶筅の動き、凡て

あらわな様であってはなるまい。もっと素直な捌きでよくはないか。さもな

いと禅意に悖ろう。しきたりの茶礼にこの弊は深い。茶袱紗で棗をぬぐい茶

杓を清める。これもはや形のみ眼について、ぬぐう真似事だけが残る。なぜ

本当に清めてはいけないのか。その必要がなくば、なぜ形に執するのであろ

うか。そこには既に死んだものがあろう。

 想うに今の「茶」を正しい「茶」に深めるためには、どうしても一度今日

の「茶」への否定がなければならない。少なくともそれを否定して後に現れ

る肯定でありたい。或は一層「茶」からの解放とそれを呼んでもよい。死に

瀕しているしきたりの型から、少なくとも自由でありたい。この自由こそ型

の基礎でなければならない。型は必然さであってこそよい。今日の茶礼に、

そんな必然さは見当たらないではないか。在来の「茶」からの解放をこそ、

久松氏の如き方に望むべきだと私には想える。かの宗匠の「茶」の如き既に

商売に化したものに、何をか望めるであろう。久松氏の如き平の茶人に期待

せずして、誰に期待し得るであろうか。私は作為に過ぎた茶を取らない。

「茶」にも「如」の境地が欲しい。茶は謂わば「如の茶」であるべきではな

いか。

 その日二個の茶碗が用いられた。何れも「楽」で一つは割高台の丈の高い

茶碗であり、他の一つは赤楽であった。前者は噂では高麗ものと聞き及んだ

ので、お希いして用いて頂いたのであるが、見ると全くの和ものであった。

河井の説明ではこれも「楽」の一種だという。少なくとも茶碗の美が意識さ

れて以後の作であるのは言うを俟たない。赤楽が又「茶」のために工夫され

たものなのは誰も知る通りである。

 多くの茶人達はこれ等の「楽」を尊ぶ。或る人の眼には茶碗の極致だとさ

え映る。だがかく見るのは果たして正しいであろうか。私達からすれば茶碗

の堕落は、この「楽」に発足したのであって、これが遂に不治の病いとなっ

て、今も茶器を毒しているのである。『臨済録』には「無事是貴人、但莫造

作、祇是平常」云々と記してある。「楽」は強いて美しく作ろうと工夫をこ

らした造作の茶碗である。少しも「無事」であり「平常」である性質がない。

その形の歪み、いびつ、へらめ、釉だれ等々、もはや尋常の様ではないので

ある。凡てが作為のしわざなのは誰の眼にも映るはずである。「茶」は清寂

を云々するが、実は「楽」ほど喧噪を極めた茶器はない。どこに沈黙がある

であろう。人々はそこに渋さを説くが、およそ饒舌な茶器ではないか。あの

「大名物」たる多くの「井戸」茶碗には、少しだにかかる造作がなかった。

何れも「平常」に在る器であった。如何に形にゆがみがあっても、「かいら

ぎ」に風情があっても、凡ては雅致をねらっての事ではない。「無事」の境

地から坦々と生まれたものなのである。造作の「楽」と自然な「井戸」とに

何の縁があろうか。

 禅経験とその哲理とに深い久松博士が、これ等の真理を熟知しておられる

のは当然である。それなのに何故、造作の茶器を、矛盾なく取上げられるの

であろうか。これを禅庵のわび茶に用いられるのは何故なのであろうか。そ

こらの茶人がしか為すのは「無事」の教えを識らないからに過ぎない。又は

物の美しさを見る眼がにぶっているからに過ぎない。想うに氏の「茶」は只

只「楽」を尊んだ長いしきたりの中で、育てられたからに因るのであろう。

それ故何の疑いをも差挟む機縁なくして、それがそのまま習慣にまでなった

のであろう。又疑いを入れる余地なく「茶」の伝統を信じたからによろう。

そういう環境の中で、茶礼を学ばれ、茶事を味われて来たからによろう。そ

れを正系と云えばそれまでであるが、真の活きた正脈は、在来の「茶」への

否定なくしては持続されまい。しきたりの「茶」の全面的肯定に、何の「茶」

の未来が期待されよう。

 嘗て氏は岡倉天心の「茶」の見方を評し、この著名な美術批評家の茶美に

関する見解を駁した。天心が、「茶」の美は完全に至る道程としての「不完

全の美」であると為すに対して、氏は進んで「完全への否定」にこそ「茶」

の美があると為した。そうしてかかる美には「無」の基礎があるべきことを

説いた。久松氏のこの見解は正に一頭地をぬいているものと思われる。併し

「完全への否定」で「井戸」の美がよく説けるであろうか。それは「楽」の

好個の説明にはなっても、無造作な「井戸」の解明にはなるまい。何故なら

「井戸」は完全、不完全の対立に何の関わりもない境地から生まれているか

らである。完全の肯定や否定から、全く自由に解放されているのが「井戸」

である。謂わば分別未生の域で作られて了うのである。「楽」は「完全への

否定」であろうが、それは未だ「無」からは遠い存在ではないか。「無」は

無礙であろう。「茶」の美はそういう無礙の美、未生の美にあるのではない

か。有相のかたまりともいうべきものが「楽」である。否定に滞って、造作

の限りを尽くしているのが「楽」である。そんな「楽」が平常心を説く禅意

に適う謂われがない。「楽」は十職のうちに残って、今日も尚仕事を続ける

が、「茶」が嘗て犯し、今も犯しつつある著しい錯誤の一つだと云わねばな

らない。

 吾々はこれ等のことに就いて博士と親しく語り合いたかったのである。氏

から教わるものも多々あると思われ、又私達が氏に贈り得るものも何かある

かも知れぬ。茶道を高め深めるために、氏の如き思索者を誰よりも必要とす

るであろう。若し具象的な器物への観察と直観とが、同氏に一段と深められ

たら、氏の茶論は愈々冴えるであろうことを疑わない。

 辞するに及び、再び西田寸心先生の扁額が眼に入る。文に曰う、「大道通

長安」と。恩顧を受けた私として、今は亡き先師を評するのは礼を失すると

は思われるが、あれほど卓越した思索者であった先生も、その文字に於いて

錯誤を犯されなかたったであろうか。先生は文字を習うことに並々ならぬ努

力を払われたと聞く。正にそうに違いない。あそこまで文字の型を破って面

白味あるものにまで変えられた技には、容易でないものがあろう。併し妙味

を追われた跡があらわに残る。一見して只書かれたものではないということ

が分かる。先生のような達人には、拙いなら拙いままで、美しい文字があり

得ることが知られていた筈である。だがここには「拙」を退け「巧」を選ん

だ跡が見える。それを人間として為すべき当然の務めだという人もあろうが、

併し「拙」に対する「巧」にどれだけの価値があろうか。『信心銘』には

「唯嫌揀擇」と記してある。だが先生のは揀擇された文字ではないのか。真

の美しさは「拙」にも「巧」にもこだわらない境地にありはしまいか。先生

の文字には尚も異常なものの影がつきまとっているのである。坦々とした平

常のものとは云えぬ。これをしも長安に通ずる大道と云えようか。それは波

乱に充ちる狭路ではないであろうか。寸心先生は自からどう省みられるであ

ろうか。私として見ればもっと作為しない文字の方が尊く思われてならぬ。

先生の無造作に書かれた手紙の文字の方が、遥かに美しく又有難い。技巧が

眼に残っては、公案の答えとはならぬ。先生の文字と哲理との間には尚多く

の隔たりがありはしまいか。

 先生の遺骨は分たれて、又妙心寺の境内に葬られた。いつか折を得て詣で

たいと希っていた私には、その日の午後は又とない機会であった。久松教授

はその多忙な寸暇をさいて、態々吾々を案内しようと申し出られた。奥津城

はすぐ近くの霊雲院にあった。この禅刹の中でも見事な塔頭である。その庭

苑の片隅に墓碑は設けられてあった。誠に世塵を遠く去った浄域である。掃

き清められた白砂の庭、霊を守る如くめぐらされた土塀、その上に被い重な

る緑の樹々、永遠の寂静を想わせるその場所が先生のために選ばれたのであ

る。何の宿縁か、傍に建つ鐘楼から、日夜の鐘が黄鐘調の梵音を響かすとは。

こんなにも美しい墓所は又とあるまいと思われる。霊あらば、先生の悦び、

何ものにかこれに換えられよう。多くの遺弟達の心尽くしに依るものに違い

ない。

 だがここで又私の眼は一つの困惑に落ちた。世にも美しいその墓所に引き

かえ、いともつまらぬ墓碑が建てられているではないか。美学者植田壽蔵教

授の案によるというから、何か見所を感じられたのであろう。只横に寝た天

然石が置いてある。聞けば鞍馬から運び出されたというが、形に何の意味が

あるのであろうか。石そのものに醜さはないとしても、天然の石は未だなま

のままであって、碑石に熟したものとは云えぬ。若し天然の石の方が優ると

いうなら、人間は何の求めあって五輪の塔を刻み、あの蓮台を据え、光背型

の碑を建てたのであろうか。かかるものには何か心霊の象徴が漾うのを覚え

る。天然の石は墓碑としての意義を未だに持たない。彫刻を得て石が碑に甦

えるのである。たとえ奇巌珍石であろうとも、そのままでは人間の憧れを伝

えるに足りない。これが美学者ともあろう人の選択とは考えられぬ。何か一

時の想いつき、一種の趣味の犠牲に過ぎなくはないか。墓らしからざる墓と

呼ばれても答えはないであろう。京都は平安の舊都、一千年の歴史を持ち、

二千個の寺を今も擁し、そこに残る墓碑、幾百千万と数えられるであろう。

少なくとも元禄寛文の時代あたりまで溯ると、限りなく美しい碑石の数々に

出会う。なぜ真近くにあるこの豊富な資源を活かさなかったのであろうか。

天然石は刻まれた石より更に美しくはあり得ない。刻まれることで石が始め

て石の本性を示すとも云えよう。人間の芸術が自然に優る所以である。芸術

で自然が最も美しく整理された自然になるのである。美学こそこの原理を重

重教えているのではないか。

 而もこの自然石は、色も違い作りも違う花崗岩の上に置かれてある。その

間に何の調和をも見出すことが出来ぬ。寸心先生はよき弟子を沢山持たれた。

哲理をわきまえた彼等の中から、この誤りに強く抗議を差挟む者は一人も出

なかったのであろうか。望むらくはもう一度先生のために墓碑を建て改めた

いものである。

 北鎌倉東慶寺の先生の墓には五輪の塔が安置せられた。この方がどんなに

優つているか分からぬ。只惜しむらくは、すぐ隣する岩波茂雄の墓が、先生

のより万事大形に建立せられた。遺族や知友はもっと先生の前につつましや

かに建てるべきではなかったか。それは岩波氏自身の希望でもあるに違いな

いのに。

 その日は多忙であった久松教授に、本意なくも長い時間、お邪魔して相す

まぬことであった。辞するにのぞみ、博士は態々門前まで吾々を見送られた。

そうして吾々が遠く去るまでそこに佇んでおられた。懇ろなその心と礼とに、

何か心が温まり清められる想いがした。妙心の禅刹は、その日も亦吾々に幾

つかの公案を投げた。この一文はそれに対するささやかな答案の一つである。

久松博士の教えを待ちたい。


                   (打ち込み人 K.TANT)

 【所載:『心』 昭和24年4月号】
 (出典:新装・柳宗悦選集 第6巻『茶と美』春秋社 初版1972年)

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